モノノフからDDへ

ももクロ一筋だったモノノフがDD化していく軌跡を綴ったブログ

ベイビーレイズJAPAN・渡邊璃生作『モラトリアム -F』についての感想というか考察

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本記事は、ベイビーレイズJAPANの最後のライブとなった「伝説の最高雷舞」で、グッズ販売において7,000円以上商品を購入するとついてくる冊子、ベイビーレイズJAPAN渡邊璃生『モラトリアム -F』についての感想というか考察になります。

作品的には前作*1と地続きの部分もありますが、今回は『モラトリアム -F』単体における感想とし、そこから読み取れるアイドル・渡邊璃生という存在について、私が色々と思い描いた内容を、好き勝手に書かせていただきました。

りおトンが求めている感想とは異なるとは思いますし、虎ガーとしては基本的に好意的な言葉を返すのが正しいとも思いますが、職業病的にどうしても真正面からまともにぶつかりたくなってしまったので、あえてこういう形で長々と、しかも憶測推測交じりの言葉をつらつらと書かせていただきました。

一人のアイドルである渡邊璃生という存在が書いた作品に対して、そこまで正直にぶつかるのはどうなのかと、本来作家ではない彼女の作品に対して、まともなスタンスで向き合うのはある意味大人げない行為なのではないかと思ったりもするのですが、そうしてみたくなるだけのものが本作にはあったということです。

まあ、本当のところは短い言葉で簡潔に的確な感想を書く才能がないから長々と書いたというだけですが。

『モラトリアム -F』を読んでいない方にはよくわからない記事になっているかと思いますので、それも含め、先に謝意と言い訳だけ述べておきます。

 

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この小説はアイデンティティとレゾンデートルについての物語である。
それはまさしく、渡邊璃生が一人のアイドルとして、そしてベイビーレイズJAPANのメンバーとして常に考え続け、獲得しようと願っていたものに違いない。

それを踏まえ、この小説を読んでからこのツイートを見ると、よりいっそう彼女の想いが強く胸を打つ。

 

また、本作に寄せられたあとがきにある、

「私にとって表現とは怒りのことだった。」 

という言葉を見ると、彼女にとって渡邊璃生という存在を認めてもらえないことや、周囲からの勝手な期待と謗り、外野からの同調圧力、感情の押し付け、信頼への偽りといったものがどれだけ彼女を苦しめていたのか、ということにも気づかされる。

本作の主人公は、英雄リベロのコピーとして作り出された存在だ。
「彼」はリベロの記憶を持ち、また副作用から周囲の人間の感情や思考が直接脳に入り込んできて、そのせいで激しい頭痛を常に患っている。
また、記憶の中では母であるはずの人物からは「汚わらしい存在」として嫌悪される。
本来は無償の愛を注がれるはずの対象からも愛されないことによって、完全に孤独な存在として生きることを運命付けられるのだ。

コピーとして生まれ、いずれ危急の際にはリベロとして生き続けなければいけないと自覚している「彼」は、自身のアイデンティティを諦め、また他者と関わることを極端に避ける。

下種の勘繰りになってはしまうが、これは渡邊璃生という存在が置かれていた過去とリンクするのだろう。

しかし「彼」は「本体」であるリベロから寄せられる無垢なる友情、いや愛情といってもいいものによって、少しずつ心が揺らいでいく。
リベロを激しく憎悪しながらも、リベロから受ける情によって、徐々にアイデンティティを持つようになり、そして知らず知らず人との繋がりと愛情を欲する存在へと変化していく。

その後の「彼」がどうなるかはネタバレになってしまうので、お手持ちの方は読んでいただきたいのだが、つまりこの物語はまさしく渡邊璃生自身の物語なのだと言い換えてもいいように思う。

自分自身のアイデンティティをなかなか確立できず、レゾンデートルも見出せない中で、「自分をいじめた男子を見返したい」という思い(怒り)からアイドルになり、ベイビーレイズ(JAPAN)というグループの中で、メンバーや虎ガーと出会い、結果を残していくことで、少しずつアイデンティティとレゾンデートルを獲得していく。
りおトン自身がなんというかはわからないが、自分はそういう物語として読まざるを得なかった。

本作の結末と彼女自身の心がどうリンクしているのか、それともそこについてはこれからの話であって、リンクしているのかいないのかはわからないが、この話の続きがあるのなら、二重の意味でそれを知りたいと思った。

この小説を読んでいる間(以前のりおトンの小説を読んだときも同じだが)、自分の高校時代、文藝部で同人誌を出しているときのことを思い出していた。

あの頃の厨二病的な単語や文字(特に漢字)の選び方、ネーミングセンスや表現方法などを思い出させられてこちらが気恥ずかしくなる部分もある。

そして、当時の自分がこの小説を読んでいたとしたら、至極正直にいって「認められない」と思ったであろう。

というのは、これもあとがきに書かれていたことではあるが、りおトン自身はあくまでも、 

わたしはだれかのためになにかを表現したことはないし、これからもずっとそうかもしれない。 

と、「自分の書きたいことを書きたいように書いている」わけで、そこにあるのは読者第一主義、今流行の言葉で言えば読者ファーストではなく、あくまでも自分、作者ファーストなのである。

こういう書き手は文藝部時代に多く存在していて、自分はそうした書き手に反対する急先鋒だった。
読者を意識して書かれていない作品はなんであろうと、読者を想定した誌面で発表するべきではない、というのが自分の立場であった。
自分のために書くのならノートにでも書け、と。
今思えば若かったなあ。

それはそれとして、本作についていえば、いかんせん説明不足だし、設定が飲み込みにくいし、キャラクターたちの言動や言い回しはブレているし、前述したような言葉の選び方ひとつをとっても自分が編集という立場にいたら絶対にこうはさせないだろうな、というものが散見する。

ただ、ことこの小説に関していえば、小説としての存在意義以上にアイドル・渡邊璃生の存在証明としてあるべきものでもあり、むしろそうであるからこそ、編集の手が入ったりしていない、生身の渡邊璃生が伝わってくるこの形であったことはとても望ましい。

技巧的にも、どこまでが自覚的なのかはわからないが、キャラクターの名前が意味を持つ記号としても同時に機能していたり、コピーの存在として苦しむ主人公の近くに、双子のキャラクターを置くことで、対比構造を際立たせるなど、非凡な部分も多い。
残虐描写に関しては他の部分と比べてハッキリとわかるくらいに見事なものになっていたりとかね(笑。

だからこそ余計に、編集なり、客観的な意見を取り入れることができればより読み応えある作品にもなったと思う。

しかし、この作品(これまでの作品も含め)はこれでいいのだ。

これまたあとがきでりおトンが、

でも「わたしの表現がだれかを少しだけ元気にしたらそれはそれで嬉しい。 

とも語っているように、彼女の中で自分のためのものであった表現が、少しずつ受け手のためのものへと変化していってくれれば、とても面白いことになるだろう、と思う。

ベイビーレイズJAPANという場所でアイデンティティとレゾンデートルを獲得した彼女が、次へのステップとして、表現を「怒り」のためのものから、コミュニケーションツールとして、自分の伝えたいことを伝えるための手段として使うようになってくれたら、彼女のファンのひとりとしてとても嬉しく思うし、より彼女のことを知りたいと思うようになるだろう。

文頭にも記したように、りおトンが望んでいたような感想ではないであろうことは重々承知していますが、ひとりくらいこの作品と真正面からぶつかってみるような読者がいてもいいのではないか、と思いつらつらと好き勝手なことを書きました。

この作品がりおトン自身の投影かどうかは完全なる筆者の主観と妄想によるものなので、そこはご寛恕いただきたい。

果たしてりおトンのエゴサがここまで届くかどうかはわからないが、もし届くのであれば、「書き続けて」という言葉と共に届くことを祈ろう。

あ、あと、トン好き。

*1:ワンマンライブの際には毎回一定額以上の購入でりおトン作の小説がついてくる