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モノノフからDDへ

ももクロ一筋だったモノノフがDD化していく軌跡を綴ったブログ

ももいろクローバーZ 舞台『幕が上がる』の演出に疑問を呈してみる

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2度目の幕が上がる

「私たちは舞台の上でならどこまでも行けるさ」


そう、そうなのだ。芝居・演劇というものの魅力はこの言葉に凝縮されているといってもいい。
何もない板の上でも、そこが家にも学校にも宇宙にもなりうる。
役者は舞台の上でならどこまでも行けるし、観客はどこにでも連れて行ってもらえる。

しかし、結果として本広克行が連れて行ってくれたのは、学校の美術室と屋上、そしてカラオケボックスだけだった。

しかも森田芳光が『家族ゲーム』で描いた、家族が一列になって食事をするシーンのように、常に構図は同じ。

どこまでも行けるはずの舞台で、私たちが見ることのできるものはあまりにも少なかった。

ここから先は、基本的に、舞台『幕が上がる』の演出、およびその取り組み方について、結構な批判を行う記事になります。

ももクロメンバーの演技について、彼女たちの努力については一切否定するつもりはありませんが、ももクロももクロの周囲の全てを愛する方にとってみれば、決して読み心地の良い内容ではないと思いますので、そういう方々はスルーされる方がよろしいかと思われます。

重ねて申し上げますが、ももクロメンバーを否定するつもりは一切ありませんし、それどころか、初舞台でここまでできるのは素晴らしいと思いますし、素直に感動しました。

ですが、ひとつの舞台作品として『幕が上がる』を見た場合、決して見るに値しない作品ではなかったとは思うものの、率直な話、役者演技以外はほぼ見るべきところもなく、特に演出面にいたっては役者の演技を引き立てるどころか足を引っ張るものになっていたとしか思えませんし、同時に役者に頼りつつも、役者を舐めたものになっていた、というのが私の感想です。

そこまで言う? と思われるのは確かで、おそらく多くの方はそこまでの不満を持たなかったと思います。ただ、かつてそれなりの年月とプライドを芝居にかけた者としては、「もっとできたはずだし、もっと良いものになってしかるべき」と思ったので、書かずにはいられませんでした。

舞台の演出などというのは個人の好き嫌いの問題、という方もいらっしゃるとは思いますし、その意見には頷ける部分もありますが、例えそうだとしても、ちょっとそれはないだろう、と思わざるを得ない演出が多すぎたし、なにより、出発点が間違っている、と思いましたので、偉そうですが、思ったことについて語ってみたいと思います。

上記で、出発点が間違っている、と書きましたが、そもそもの出発点とはなんだったのかというと、映画監督である本広克行を舞台の演出家としたことです。そして、映画『幕が上がる』に関しては、あれだけ映画手法を忠実に守って映画を撮った本広克行が、舞台に関しては演劇手法を適当に取り入れ、最終的には映画監督である自分の手法にこだわって作ったことが一番の問題だと思います。

そもそも専門ではない演劇を映画監督である本広克行が作るならば、自分の得意な部分を生かす、というアイデア自体は悪くないとは思いますが、それによって零れ落ちるものが多すぎた。

本広克行が映画的な手法でこの舞台を作ろうとした、というのは、一言でいえば「舞台を画にしようとした」ということになるかと思います。そもそもこれが大間違い。


映画の場合は、大きさに違いはあれど、スクリーンという明確なキャンパスがあります。そして、そこに映すものを基本的には全て見せること、見てもらうことが前提に作られています。映画において、左下四分の一しか見ない、とかそういうことは基本的にありえないし、3D映画でもない限り、前方と後方、といった概念も存在しません。

しかし舞台は違います。ステージの大きさは変わらずとも、場面場面で見るべきところは変わってくる。時には一人の役者の表情だけを見せる(見る)こともあれば、ステージを俯瞰して見ることもある。平面的にではなく、前後の対比、上下の対比、そういったもの全てが芝居では重要となります。

映画やドラマなど、カメラがある場合は、表情にズームする、全体をパンで見せる、そういうことは自在にできます。しかし、芝居・演劇の場合はそれができない。ですが、それを自然と観客自身に促すようにするのが演出だと思います。

見えないものが存在し、見えるものも消すことができるのが舞台ですし、実際の距離が離れていても、心理的な距離が近ければ、舞台の上ではそれを表すこともできますし、その逆も同じ。そういった工夫がまったくといっていいほど感じられませんでした。

演出というと、役者への演技指導がメインのように思っている方々も多いかと思いますが、どちらかといえば、演技指導よりも、「今、観客に何をどう見せるか」を考えるのが演出の一番の仕事だと思いますし、役者への演技指導はその中の一環でしかありません。

しかし、本広克行は、そういった演出をほぼしておりません。それは本編を見ただけでもわかります。百田夏菜子演じる富士ヶ丘高校演劇部部長であり、演出家の高橋さおりは演出家として口にするのは「間をもっと空けて」とか「こういう言い方をして」という役者に対する演技指導のみであり、それがどのように観客に見えているのか、を一切口にしません。

それどころか、彼女は舞台練習を観客席の側から見ない。なぜか横から、むしろ観客とは反対の側から見ながら演出をする。

「そりゃ、そうしないと夏菜子の演技が観客である我々に見えないからでしょ。そんなの舞台のリアリズムのひとつですよ」という向きもあるかと思いますし、完全にその意見を否定するものでもありませんが、「舞台の上でならどこまでも行ける」理論から考えると、個人的には演出としてはアイデアがなさすぎる。

そもそもなぜ、舞台の練習風景は常に一定の構図、角度なのか。夏菜子の演出に重きをおきたいシーンの場合ならば、舞台の練習風景が必ずしも実際の舞台と同じ向きで観客に見せる必要はないのです。我々観客が練習風景を反対側から見て、夏菜子の演出を見る、というシーンがあっても良かったと思いますし、むしろその方が、観客は「今、何を見ればいいのか」がハッキリとわかる。練習風景よりも、演出家として悪戦苦闘する夏菜子の表情や仕草に注目することができる。
「なんでそんな方向から演出してるのか?」などという雑念を持たずに済む。結果として、練習風景のシーンは、全てが同じように展開されてしまうので、観客は何をどう見たらいいのか自分で判断するしかありませんし、画として同じようなシーンが延々と続くことになるので、面白味も薄れる。

練習のシーンごとに、角度を変えるだけでシーンとして新鮮になるし、その度に中心に置く部分を変えれば、このシーンでは夏菜子が中心となっているんだな、このシーンではしおりんなんだな、このシーンでは杏果なんだな、ということも明確になる。
見るべき部分を観客に委ねている、といえば聞こえはいいですが、個人的にはそれは丸投げと同意だし、アイデアも工夫もないとしか言いようがありません。

いや、そこに隠された意味合いが読み取れないお前の方に問題があるだけだろ、という指摘は確かにあると思います。で、あれば、そこに隠された意味合いが多くの方には理解されたのだと思いますが、それはどんな意味があったのでしょうか? 私以外の観客にも通じていないのであれば、それは失敗だったということでしょう。

演出家のもうひとつの仕事は、観客を芝居に集中させることであり、集中を殺ぐような雑念や違和感を取り除くこともあると思いますが、その点でも本広克行はまったくダメな仕事をしてくれました。
上記の夏菜子の演出シーンもそうだし、数え上げればキリがありませんが、最も許せないのはラストシーンです。

ユッコ(しおりん)がジョバンニを演じるこのシーン、二回見た舞台のうち、特に5/19に見た回でのしおりんの演技はとても素晴らしく、色々な葛藤の中でジョバンニに辿りついたユッコとしての演技を見せてくれた。この演技の素晴らしさはおそらく黄推し以外でも同意してくれると思います。

しかし、そんな素晴らしい場面で本広克行はどうしたか。まず、しおりんの立ち位置。なんで下手なのよ。高校演劇の大会のラストシーンとしても、ここは絶対にセンターでする芝居でしょ。下手にする意味がわからん。いや、わかるんですよ、なぜなら舞台の上にはもう一人の存在として夏菜子がいるから。夏菜子を上手において、しおりんを下手に置く、という「バランス」でしかない。

よほど、ステージから離れた席なら別ですが、この二人を同時に見るなんてことはなかなか出来ないし、二人を同時に見てもらう必要性が個人的には感じられない。上手と下手を順々にテニスの試合みたいに見ればよかったんですかね? それがやりたかったことなら仕方がないと思いますが、自分なら絶対にしない演出だな。
もし、しおりんの演技と、その演技を見つめる夏菜子の姿をどうしても一緒に見せたいのであれば、センターにしおりんを配置して、その後ろに夏菜子を配置するべきでしょう。そうすれば、目線を動かすことなく、二人を同時に見ることが出来る。焦点をずらすことくらいならばあってもおかしくはない演出だと思います。

見せたいものがハッキリとしていない演出というのは、正直観客もですが、役者にとっても迷いの対象となるので、このシーンはホントにダメだなあ、と思いましたね。

さらにダメなのが、しおりんが演技だけで十分に観客を引き付けてくれるのに、彼女の背後にLED照明がダラダラと下がってくるんですよ。もうね、バカかとアホかと。しおりんの演技に集中したいのに、後ろでチラチラチラチラと照明が動いてる。なんなんだよ。こっちの集中力試してるのか? それに意味はあるのか?

演出、という点ではですね、しおりんと杏果(なんで制服姿だったのか意味不明)の間に、おそらくは天の川を想起させる照明を置くことで、二人の距離が見た目よりも遠いんですよ、ということを表したかったのかなと思いますが、役者の演技の邪魔してまで必要なんですかね?

こういった全ての演出が、「画を見せたかった」という意識があったからこそ生まれてると思いますし、それが映画監督としては当然の欲求なのかもしれませんが、舞台演出としては最低だったな、と。

「画」にこだわるからこそ、無駄に立派なセットを組みます。立派なのに、全然役に立たないし、むしろ足を引っ張る。
前述した練習風景のシーンとかもセットがなければいろんな角度に変えて見えることは出来たと思いますが、セット組んでしまったばかりに、同じ角度から延々見せることになっちゃう。

屋上のシーンでも「フェンスに寄りかかった三人の後ろ姿」を見せたい、という「画」が先にあるから、あんな無駄なセット組む。役者が舞台で観客に尻向けるな、なんて時代錯誤な文句を言う気はありませんが、一瞬の画としてなら「三人が並んだ後姿」は美しいかもしれませんが、私はあの時「三人がどんな表情しながらこの台詞を話しているのか」が見たかったですよ。
これも別にセットに縛られることがなければ、どちらも見せられたと思う。

カラオケボックスのシーン、というかセットも意味不明で、なぜ上手縛りであんな高い位置で見せる必要があるのか。おそらくは座りが多いシーンだから、ということだと思いますけど。

セットをリアルに組めば組むほど、セットから逸脱した動きが違和感を生むことなんて判りきってると思うのに、なぜかこのシーンではそれをやっちゃう。れにちゃんとかしおりんはいったいどこで歌ってるの? そもそも、センターでマイク使って歌う必然性あるの? しかもその選曲なの? あのシーンはもうまったく意味不明でした。

おまけに途中からセットが中央に移動し始めるしね…。じゃあなんで最初に上手に置いたんだよ…。芝居の最中にセットが動き出して、違和感感じないわけないだろっていう。

黄推し的には、涙を流すしおりんの姿が杏果の背中で見えないとかも、意味わかりませんでした。どっち見せたいんだよ。

セットをある程度リアルに組むことは、実際には役者を助けることにもなります。見えているものが多く、それが観客にとってわかりやすければやすいほど、役者が表現するものは少なくて済むからです。

ももクロをはじめ、その他の役者に関してもほとんどが初舞台、という布陣であったことを考えると、そのためのセットだったのかな、とも思いますが、それこそ役者を舐めた行為だな、と思いますし、それを演出の腕で取り返せるならまだしも、演出家が足を引っ張ってどうするんだよ、というのが私の印象です。

細かいこと上げていくとキリがないんですけど、暗転の使い方も統一性がなかった。暗転は舞台転換のための演出じゃねえんだよ。時の経過とかを表す意味のある演出なんですよ。

なのに、一度目の舞台転換には暗転が存在せず、それ以降の舞台転換は、一瞬だけ暗転する。そしてなぜかその後、薄明かり状態で舞台転換を見せる。この辺もなあ、ちゃんと「意味」を持たせてくれよ、と。映画ではあれほど丁寧にやりすぎにも感じるくらいひとつひとつの演出に「意味」を持たせていたのに、舞台になったらこれですかっていう。

仕方ないです、本広克行は映画監督であって、舞台演出家じゃないから。初めての挑戦なんだから差し引いて見ないと、というのは確かにあります。
ですがね、周りにいた人は全員素人だったわけじゃないでしょう? 本広克行に対して、アドバイスしたり、ダメ出しできる人はいなかったの? そういうね、なんというか裸の王様的な状態のまま、この舞台の制作が進んでいったのかと思うと、それもまたそれでガックリきちゃうんですよね…。

芝居の中で「セリフ渡しの意味わかってる?」という夏菜子のセリフがあるんですが、私はあのセリフをまさしく本広克行にぶつけたいと思いましたよ。
画的に面白いからってセリフ渡しの練習ばかり見せるんじゃねえよ、っていう。意味わかってたら、あの時期にあんなにセリフ渡しするわけねえだろ。むしろやらないよ。

中途半端にオリザメソッド取り入れるのも意味わからんかった。オリザメソッドってのは、部分部分で使えるようなものではないと思うんですよ。一から、そのメソッドにしたがって作らなきゃいけないのに、中途半端に取り入れるから違和感しかない。

一番イライラしたのは、れにちゃんとあーりんのボケツッコミが、いちいちスローモーションに近い動きで行われることだな。これがオリザメソッドの影響なのかはわからないんですが、それ以外の理由で、あんな演技になる理由がまったくわからない。

あれ見て違和感感じない人とかいるんですかね? だって他の動きは全部普通のスピードで動いてるのに、ボケツッコミだけが遅いんですよ。誰か一人でも、それはおかしくないですか? という人はいなかったのかね…。

演出、という部分に主眼をおいてひたすらダメ出ししてきてしまいましたが、実際はまあそれだけでもないんですよ。
500歩くらい譲って、映画見てなきゃわからないストーリーだったことは許そう。まあ、そういう企画ものだったんだし。

でも、脚本としても面白くもなんともなかったよね。映画ではそれなりに起伏があり、一応の盛り上がりもあったから、平田オリザもそういう脚本書くようになったか、と思ったけど、舞台についてはやはり日常劇でしかなく、この舞台単独でのカタルシスとかはゼロでした。まあ、それが平田オリザだといってしまえばそれまでなんですけどね。

そもそもそれをアイドルがやる必要性ってどこにあるんだろうか。いやまあ、正しいのかもしれない。どうせみんなアイドルを見に来ているんであって芝居を見に来ているわけではない、と思えば。

まあ、実際そういう部分もあったしな。でもそれは、芝居としては負けみたいなもんだと思いますよ。

アイドル目的で見に来た観客に「芝居として面白かった」と言わせてなんぼなんじゃないですかね。

だったらまあそもそも平田オリザ選ぶか、という話にもなるんだけど。

「画」にこだわりすぎた結果、「カーテンコールでサイリウム」みたいな話も出る。それは単に、そういう絵面を演出家である本広克行が見たかっただけやろ、っていう。でもそれを演出としてするのであれば、ちゃんとそういう作りこみをしろよ、と思ってしまいます。
実際、私が見た2回の公演ではほとんどそんな人はいなかったので、演出としては失敗だったとハッキリ言えると思います。

芝居ってのは「画」を見せるものではないんですよ。実際に目の前で人間が演じてるのに、「画」を見せてどうするんだっていう。

その最初の出発点を間違えてしまったからこそ、こうなったと思います。映画監督としての強み、他の演出家ではできない(?)かもしれないことをやろうとした意気込みは買いたいと思いますが、結論としては失敗だったと思います。

本人のツイートで「何度も見てもらばわかる」とか書いてたのがまたね…芝居なんてそれこそ一期一会なんですよ。二度と同じ芝居はない。オリザメソッド的にはそれじゃダメなんだろうけど、観客が何度も見てくれることを期待するなんてあり得ん。実際問題、今回なんかプラチナチケットなわけで、一回見るのも大変なんですよ。

一度でわからない、伝わらないものを作って、それを肯定するようなことを演出家が言うなんてのは逃げ以外の何物でもない。

自分はももクロが好きだし、だからこそこの芝居を見に行ったわけですが、ももクロだけが見たかったわけでもない。
芝居としても良いものが出来上がっていて、その中で、彼女たちが役者として、その芝居の中で輝いていることが理想でした。
しかし、そうはならなかった。それが本当に残念です。

さすがに、負の意見をこれだけ書くと精神的にも疲弊するので、とりあえずこの辺にしておこうと思います。
重箱の隅をこれ以上つつくのもアレだし。「あそこの場面はどうなの?」とか知りたい人がいたら個別に聞いてくださいませ。

まあ自分的には、それなりの年月やプライドを芝居にはかけていた時期があるので、それをこういう形で見せられると物を言わずにはいられませんでした。
「そんなことない、この芝居は良かった」という方がいらしゃったとしても、その意見を否定するものではありません。100人いれば100人の見方があるのが芝居ですし(見ている部分さえ違うのが芝居なので)。

あくまでも、元・芝居屋のひとつの意見として、書いておきましたが、別に単にディスりたくて書いたつもりもなく、もっともっと良いものになったはずなのに、という悔しい気持ちの発散先として書かせていただきました。

映画がね、良かっただけに、期待したんですよホントに…。

まあ、さすがに否定的なことばかり書いてもなんだし、ほぼ演出についてしか書いていないので、役者陣については別途書くかもしれません。
役者は、良かった。それだけが唯一の救いでしたからね。